小田急線や京王線や新幹線の「信頼感で成り立っている公共機関」で内面の崩れた(多分)人たちが刃物で居合わせた人々を斬りつけてそのあと現場を破壊しようとする事件が発生しています。
新幹線の事件は模倣という幼稚な動機しか感じられませんが京王線事件にしては「死刑になるために」だったり小田急線事件は「幸せそうな女に腹が立った」というはっきりした動機がありました。2001年の付属池田小事件や2008年の秋葉原通り魔事件や2019年の川崎市登戸通り魔事件など社会のとても柔らかい場所を見つけ出しそこを痛めつけるというこういうメチャクチャな発想の事件はどんどん思い出されてしまいますし同時に時間経過と正比例に忘却されていることも感じます。
とにかく一方的でとんでもなく憎むべき事件で被害者及び関係者の人々に対してはうまく表現できない想いはあるのですがなんでだろうと常々思っていたことがあるのでまとめます。
加害者の像は生来の粗暴とか低い知能とか発達障害もしくはその傾向があってそれらが他人とうまくやりとりできなくて圧倒的に孤独であったと思われます。複合して怒りや悲しみや絶望そしてかといって自殺は怖いとかの感情が爆発し一方でどうせやるからにはいかにダメージを与えられるだろうかと犯人なりに計画して実行していると私は捉えています。違っていたら教えてください。
彼らの気持ちというか経緯は判決文を読んでも永遠にわからないのでこういう時は良い準備をした映画から伺う知る方法しか僕は知りません。なので映画からのアプローチ。
さて上記事件は全て「都市」で起こっています。都市で起こる圧倒的な暴力やそこに至る経緯を描いた映画は「タクシードライバー(主演:ロバート・デニーロ 監督:マーティン・スコセッシ)」が僕の中で圧倒的な首位を占めます。70年代ニューヨークを舞台にベトナム帰りの海兵隊員がタクシー会社に勤め社会矛盾を見つけてそこに対して一方的に圧倒的な準備をして攻撃するという映画です。主人公の攻撃目標は児童売春組織という悪でした。
そして主人公はなんとなく社会に合わせて生きてはいるが内面では強烈な怒りを抱えなおかつ圧倒的に孤独です。いや圧倒的な孤独があって怒りが醸成されていったのでしょう。怒りというのはどうしようもない自分に相対するのが嫌なあまりに逃走する行為なので。そこにスコセッシの異常に重量感のある映像とバーナード・ハーマンの脳幹を揺さぶるような音楽そしてデニーロの段々狂気に堕ちていく演技というかロバート本人の本質が曝け出されていく展開がとにかくとても危険な映画になっています。ヤヴァイ映画ってやつです。
そもそもタクシードライバーは僕が「ディアハンター」2部作と呼称しているPart2なのです。ベトナム戦争でPTSDになってしまったロバートデニーロがクレアトンに居られなくなってしまいニューヨークという都市に逃れた続編ストーリーなのだと思っています。
戦争最前線に行った人達は圧倒的に異常すぎる経験をするので普通の人とはそれが共有できないのです。帰還して他のところ(ビジネスとか表現するとか)でうまいこと薄めることが出来ない人は孤独になるしかないという方程式があることを理解してくれという2部作だったと思います。タクシードライバーの方が2年先に公開されている矛盾については当時の時空の捻れから生じています。
もう少し映画の話を続けます。
ところがディアハンター3部作目という映画が2019年にリリースされてしまいました。それが「ジョーカー」です。これがまたとんでもなく危険な映画なんだ。主人公は
続く、、