キリストがゴルゴダの丘で訴えた神さまは誰?

ユダヤ教はモーセの十戒に基づいて厳正に運用されている信仰体系だ。人間は思い込みを信じあう事によってより大きな集団を作って「サバイバルして子孫を残す」という命題に対して確率をあげてきた。またその体系に公衆衛生についての最新情報が盛り込まれていたら損はない。そしてユダヤ教は全ての宗教の根源として今も生き延びている。だが一番強烈なのはTHE LAST JUDGEMENT=審判の日→人類最後の日がやってきて信心している者は天国へ不信心者は永遠に地獄へいくというヤツだ。これは今もたくさんの人が信じている。

紀元前後の中東地域はローマの属州でポンティウス・ピラトウス(ピラト)がユダヤ属州総督として派遣されていた。ローマの属州支配は「信仰は自由。ただし税金を払う限り。」という姿勢。だから大半のユダヤ(サドカイ族)人は安堵した。だが律法学者パリサイ族達は「なぜ異教徒のローマ人に従うのか。ローマ人は最後の審判で地獄へ行くのだ。我々は今こそ律法を固く守って救世主メシアがローマを打ち倒して審判の日に備えるのだ」と猛烈に反発している状況。

十戒では「反芻動物で蹄が割れている動物」以外は喰えないし安息日の土曜日は絶対守らなければならない。喰えない動物の代表は豚やウサギだ。多分豚が中東地域に生息に適さないとか農耕などの人間の仕事に役立たないとか結構合理的な理由が背景にあったのだろうがとにかく喰えない。そしてウサギはとばっちりだろう。

イエス・キリストは「別に貧しい家がウサギを喰ってもいいし仕事があるならば土曜日も働いても神を信じていれば問題ない。それは罪ではないのだ。」と説いた。当時の人々にその考え方はとても響いてイエス・キリストの行くところには人集りができた。危ないのでガリラヤ湖では船に乗って岸に向かって群衆に説法をした。

あまりの人気に同じユダヤ人のオーソリティー達は恐れた。イエス・キリストがローマ打倒を言い始めたら瞬く間に暴動が起きるだろう。その時にローマの支配を受け入れた我々は真っ先に打ち倒されてしまうに違いない。またパリサイ族達もイエス・キリストは十戒を侮辱していて偽メシアだと考えていた。

そして彼らは言った。「イエス・キリストを捕まえろ。お仕置きだ。」

果たしてイエス・キリストは捕まり一晩中尋問と制裁(リンチ)を受け翌朝に裁判権を持つローマ総督の前まで引き摺られていった。ユダヤ人同士の揉め事なので基本面倒臭いピラトウス(ピラト)はこれが暴動に発展する事を恐る。結果「この人の血については私には責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい。」とユダヤ人オーソリティーに引き渡し私刑による死刑を認めた。それに対しユダヤ人達は「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい。」と応えそのあと本当にそうなった。

イエス・キリストはローマ時代最高刑の磔で殺されることになった。これは長い時間苦しみ抜いて死んでいく。国家反逆罪相当だった。

その後使徒達が命がけでキリスト教の布教を行い一番弟子ペテロ(岩男)がキリスト直系となりその地位を引き継ぐものが教皇となった。ペテロはイエス・キリストを神と位置付けた。ところがここにこの宗教の欠陥が露呈し様々な分裂を生んでいく。

ゴルゴダの丘で最後にイエス・キリストは「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫んで死んでいった。そして一貫してイエス・キリストは自らを神といったことはない。ではイエス・キリストが呼びかけた神は誰だったのか。それはユダヤ教の唯一絶対神ヤハウェだ。当たり前だがイエス・キリストはユダヤ教徒だった。彼の死後にキリスト教ができたのだから。

ペテロやその後継者達はこのままだと神様が2人いる事になってしまうのでとても苦労して以下の様な区別に行き着いた。

1,イエスには人間のお母さんがいて彼は素晴らしい預言者ではあったが人間に決まっている。なので我々はヤハウェを神と認めるべきだ。

2,人間から生まれたイエスは人間には違いない。だがそこに神が取り憑いたのでイエスは半分人間で半分神。我々はあくまでその神の部分を認めているのでよってイエスは神だ。マリアは人間なのでこれを認めない。

3,ヤハウェが人間マリアに宿って肉体を持って生まれてきた。なのでマリアの腹の中にいた時からイエスは神であった。だが肉体を持っているので神性と人性の両方を持っている。マリアは神の母なのでこれを認める。→現キリスト教

4,ヤハウェが人間マリアに宿って肉体を持って生まれてきた時点で100%神であった。マリアは神の母なのでこれを認める。

そして各々の論を信ずるもの達が論争を行い負けたものが違う世界に亡命した。あるものはササン朝ペルシアへあるものは唐へあるものはゲルマン人のもとへ散っていき結果大きなウネリを巻き起こし歴史を作っていった。

真剣な論争・対立を歓迎することは正しいのだ。

ところでイエス・キリストはリベラルの元祖だったのかもしれない。

 

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